末井昭著「結婚」を読んでみた。結婚の意味ってなに?


先日、某地方紙の書評欄で見つけた本です。

結婚している身分として、また結婚をなんとか継続させている身分として、
そしてこの結婚に意味があったのか疑問を持つ者として、
素直に答えを求めたかったので
さっそくネットで購入し、読んでみました。

失礼ながら、末井昭さんなんてこれまで全く知らず、ただ単純に結婚する、結婚しているということに対して、
なにか自分にピッタリくる答えはないだろうかと探すつもりで、いや、すがるつもりで読みました。

これまでも結婚について書かれている本は多々読んできたのですが(悩み多きゆえ必然的に・・・)
これまでの本と違ったところは、聖書に基づく男と女の解釈が書かれていたことです。

聖書的な解釈では結婚とは何なのか、男と女は何なのか、夫婦とは何なのか・・・

それらに対する見解が書かれていて、私の心にスッと落ちるものがありました。
クリスチャンではなくても一応信仰を持つものとして、やはり一番の大元の聖書ではどのように解釈されているか、ということは今の私の心には一番しっくりくるものがあります。

ちなみにこの本での聖書的な解釈は千石剛賢さんという方がされていたイエスの方舟という宗教団体での解釈なのですが・・・。
かつていろいろと世間を騒がせた団体のようですが・・・。
これまたそんな宗教団体があったことも、また千石さんなんて方も一切、知りませんでしたが。

それでもこの方が言われていた言葉にはしっくりくるものがあります。
さっそくネットでこの方が書かれた書籍を検索してみたらとんでもない値段がついていて、購入できませんでしたけど。

古い本、おそらくもう絶版なので法外な値段がついているのでしょうけど。

幸い、わが県の県立図書館にはおいてあるようなので、取り寄せて読んでみようとは思いますが。

なかなか聖書のなかでの、男や女、夫婦、結婚についてなんか書かれている書物をあまりお目にかかったことがないので、逆に新鮮でしたし、求めていた答えはこれだ!!って感じがしましたけど。

前半は末井さんのこれまでの人生が淡々と書かれているのですが、恵まれない家庭で育ったゆえに身に着けてしまった処世術には私にも共通するものがあり、共感できる部分でした。

一応断っておきますが、末井さんとやっていることは全然違いますが・・・。

後半からは聖書の話が出てくるのですが、今まで聞いたこと、読んだこともないような聖書に対する解釈が出てきて(私はクリスチャンではありませんが、聖書は時々読んでいて、信仰はしています)新しい発見が多々ありました。

いくつか紹介します。

「相手のしあわせをたえず祈れ」これは千石さんがクリスマスの集会のときに言われた言葉なのですが・・・。
それに対する末井さんの解釈になるほど、と思わされました。

相手のしあわせを本気で祈っているときは、自分というものが一瞬消えてしまいます。(略)つまり相手のしあわせを祈り続けることが、二人がうまくいく最善の方法

千石さんは女が作られた意味を次のように言っています。
「人間が神のことばを聞いてすばらしいものとなるためには、神のことばを聞いとるだけではあかんのです。聞いたことを、自分以外の誰かに間違いなく正確に伝え受け取らさねば、自分のすばらしさというものが現実にあらわれてこないんです。そこで、受け皿というか、すなおに男の伝えることを受け止める人格、つまり女がつくられたわけです。」(『隠されていた聖書』)

引用ばっかりで申し訳ないですが・・・もうひとつ
こちらは末井さんの文章より

愛されたい者同士が一緒にいてもうまくいきません。愛するということは、愛されるという意識を持つ者がいて成立します。(略)極端なことを言えば、男であっても女であっても、愛する者と愛される者がいれば愛は成立するのではないかと思います。

ちなみに千石さんの解釈では、「女は男を愛せない」です。
「あくまでも神の絶対意思として、男は女を愛し、女はその愛を受け止める」だそうです。

こんなことを書いていたら、ふと思い出したことがありました。
かつて(遠い昔)我が夫さんもいいこと言っていたな・・・と。
「○○は好きなことすればいい。俺はその姿を見ているだけでうれしいから」と。
まさに千石さんがいうところの男が願う真実のしあわせなのでではないかと。

いったいどこで道を間違えてしまったのやら。

おそらくその答えはまたまた千石さんのことばのなかにあります。

夫婦というものは一体になれさえすれば、何ものにもかえ難い宝を手に入れたようなもんで、打ち出の小槌をふるようにその夫婦のありかたから、いくらでもしあわせが湧き出ます。ところが、その夫婦の中に嘘が生じたとします。たかがちょっとした嘘くらいと思われるかもしれませんが、ちょっとであろうとそっとであろうと夫婦の中に嘘が入り込みますと、もうどんなにがんばっても、その夫婦はしあわせには絶対におとずれません。

末井さんの解釈では、

嘘が入ったとたんにお互いが引き裂かれてしまう、つまり他人意識が生まれるからです。

我が夫婦は最初から嘘のかたまりのようなものですから。少なくとも私は・・・。
ここで懺悔しますけど。

末井さんの言いたいことは一番最後の章「結婚の意味」に書かれています。
嘘がなく何事も包み隠さず付き合える相手、それがパートナーであると。

結婚はしてみたけれど、人生のパートナーにはなり得ていない、我が夫婦には痛いお言葉であり、全然遠い道のりです。
今まさに人生の岐路に立たされている我が夫婦はいったいこれからどうなるのでしょうか?
またどうすればいいのでしょうか?

末井さんと現在の奥様との間には聖書という共通の指針があったけれど、
残念ながら我が夫婦にはない。
私は聖書に親しんでいるけれど、夫さんは聖書には無関心。おまけに私にもおそらく今は無関心。

いったいどうすればいいのやら・・・?

再生の道はあるのかしら?

2017/12追記
私が求めている答えはこの本の中にはなかったので、メルカリに出品しておいたら、先日めでたく買われていきました。

私の答えを探す旅はまだまだ続きます。

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