始めは、小さな違和感
最初は、ワクワクしていた。
自分の経験や考えを言葉にして、それが誰かの心に届くかもしれない。
「noteなら、それができる」と信じていた。
だから毎日、時間を見つけては記事を書き、少しずつ投稿を増やしていった。
でも、1か月ほど経ったころから、心の中に小さな違和感が芽生えた。
書かれている記事を読むと、どの記事もきれいに整っていて、構成も完璧で、まるで書籍のよう。しかも更新頻度も高く、価格も書籍並み。
けれど不思議なことに、どの記事を読んでも“人の体温”が感じられなかった。
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AIの影、そして仕組みへの気づき
「この更新頻度、この完成度……もしかしてAI?」
そんな疑問が頭をよぎった。
調べてみると、やはり最近はAIを使って記事を作る人が増えているらしい。
しかも、有料記事の価格が上がるほどどうやらnoteの手数料収入も増える仕組み。
つまり、AIで量産しようが、誰が書こうが、売れれば運営が得をする。
「noteは“個人の表現の場”ではなく、“電子書籍のマーケット“になりつつあるのでは?」
そう気づいたとき、心のどこかで「私の情熱を返してくれ〜」と思った。
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それでも、書いた時間は無駄じゃなかった、と信じたい
冷静に考えると、私は“だまされた”のではなく、“学んだ”のだと思う。
仕組みの中に飛び込んでみたからこそ、見えた現実がある。
私の1か月は、ただの時間の浪費ではなかった、と思いたい
AIがどんなに上手に文章を並べても、
「人が生きて、感じて、悩んで、気づいた言葉」には勝てない。
たとえば、家計簿を20年つけて気づいたこと、
子どもとのすれ違いや、日々の小さな成長に感じる涙。
そんなものは、AIには書けない。
私が書き続けたい理由は何?と自分自身に問いかけた
これからは、
「プラットフォームのために」ではなく、
「私自身と、誰かの心のために」書きたい。
たとえ少数でも、誰かが
「わかるよ」と感じてくれたら、それでいい。
AIが量産する記事の中で、
“人間の言葉”の温度を残すことが、私の小さな使命かもしれない、と勝手に感じている。
プラットフォームの裏の顔
この1か月の経験を通して、私はようやく気づいた。
創作の世界は、やさしい顔をしていても、実はビジネスの世界。
書き手を集めているように見せかけて、本当は読み手を集めていたんだ。
でも、そこに気づいたからこそ、
“本当に書きたい言葉”を見つけられたのだと思う。
「情熱を返してくれ~」と思った夜に、
私の中で、新しい書く意味が生まれた。
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在り方としての執筆
― 思考することは、生きること ―
私はもともと、文章を書くのが得意なわけでも、好きなわけでもない。
どちらかといえば理系人間で、完全に左脳タイプ。
論理と構造の世界の方が、ずっと安心できる。
けれど、人間という存在のしくみや、
「なぜ生きるのか」「なぜ心は揺れるのか」といったことが、
昔から気になって仕方がなかった。
その“本質”を知りたくて、私は書きはじめた。
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私にとっての実験だった
感情を吐き出すためでもなく、
だれかに理解されたいわけでもない。
ただ、「私はこう思考した」と記録したかった。
それを可視化することで、
私の中にある“未知の数式”が少しだけ解けるような気がした。
書くことは、私にとって思考の実験だった。
つまり、自分という観測対象を、言葉という道具で確かめる行為。
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現実を観測する
量子力学の世界では、
“観測”が現実を変えると言われる。
それと同じように、
私が自分の思考を言葉にした瞬間、
私の世界も少しだけ変わっていく。
だから、私は書く。
伝えるためではなく、観測するために。
発信するためではなく、確認するために。
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ただ、ここに在るということ
私は、だれかに伝えたいわけじゃない。
ただ、自分の思考の軌跡を残しておきたいだけ。
それを見た誰かが「へぇ」「なるほど」と思ってくれたら、それでいい。
書くとは、私がこの世界で「在る」ことの証明。
たとえ誰にも読まれなくても、
私は今日も、自分の中の宇宙を観測しつづけている。
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終わりに
“情熱を返してくれ”と思った夜、
私はようやく気づいた。
書くことは、
情熱を使うことではなく、
自分の在り方を確かめることなのだと。
私はこれからも書くだろう。
たとえ誰に求められなくても、
それが私の、生き方だから。