『家族を「する」家』 藤原智美著 を読んでみた。
p157より引用
かつて家族は放っておいても自然に「家族になる」ものだった。けれど今では家族は「家族をする」のだという。はっきりした意思や同意が必要な時代となった
そう、私は夫さんと「家族する」のがイヤになったのよ・・・。
子どもたちと「親子する」のはいつまでも続くことだけど、夫さんと「家族する」のはいつでもやめられるのよ、だからこそ、お互いに心を配らなければならなかったのにね・・・。
私は一生懸命「家族する」のに力を注いできたけど、もう疲れてしまったの。
そもそも、「家族する」と意識しなければならなような関係程度の間柄なのよ・・・。
本物の家族になれる2人というのは、意識する、しないに関わらず自然と家族になっていくのだろうと思う。
出産して、子育てに懸命な妻をいかに心からサポートできるか、ということに尽きる。
それが本心からサポートできているのか、またはそうでないのか・・・それだけで家族になれるか、なれないかが決まるのだと思う。
出産後、夫さんのすべての言動ですべてが決まってしまうのだと思う。
(ちなみこの本での家族、というのは夫婦と子どもという家族を指しています)
何回も、何回もチャンスをあげているのに、モノにできない残念な我が夫さんでした。
そして日に日に積もっていく残念感。
そしてついに、こりゃだめだ・・・と烙印を押され、家族認定試験から脱落。
それでも10年ほどの期間ありとあらゆるチャンスがあったのにね・・・。
なんにもモノにできず・・・。
その後は家庭内別居へまっしぐら。
まだ、最終判断が下されないだけマシなのか・・・。
こちらの本にはこうも書かれています。
p244より
愛が失われたにもかかわらず夫婦でいることは犯罪
わたしって犯罪者なの?
p242より
家族にも哲学が必要
夫婦の生き方や考え方をすりあわせながら暮らすことが必要と・・・
そもそも哲学とはなにか?すらわかっていない夫さんに哲学なんてわかるはずもない・・・。
だって、いい年して、生きる意味すらわかっていないのだから・・・。